優雅に華麗に大胆に!(FGO攻略ブログ)

イシュタル召喚記念にブログ始めました。FGOについて書いていくつもりです。

スマブラガチ勢だった僕が引退を決意した話

 何から書こうか。何を書こうか。僕は先日、1年以上、2000時間以上、18000試合以上、多くの情熱と時間を費やし続けてきた大乱闘スマッシュブラザーズSPというゲームをやめることにした。その話を書いていこうと思う。
 僕は僕なりに、スマブラというゲームに真剣に向き合ってきたと思っている。僕のスマブラ歴について少し書いておくと、2019年の2月頃にスマブラを始め4ヶ月程度で最初の目標だったVIPに到達、使用キャラはルキナパルテナポケモントレーナーで特にパルテナはその華麗なビジュアルと気まぐれ女神キャラとしてのキャラ愛、そして使い勝手の良い性能からかなり愛用していた。
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 漠然とした目標としては、スマメイト1800やオフ大会で結果を残すことなどがあり、それに向けて、というよりは純粋にただうまくなるという目標を持って、毎日だれかとや専用部屋での練習を繰り返していた。
 また、スマブラを頑張る傍らそこで考えてきたことは定期的にブログにまとめたりしていて、特にVIP到達記念に書いた「0から始めるVIPの入り方」は割と多くの人に評価してもらうことができた。
ishtarvenus.hatenablog.com
 また、それ以外にも大ヒットこそしないもののそれなりにヒットした「スマブラ基礎理論ノート」というものもあり、とにかく考えて論理的に勝ちたいという方向性でスマブラに取り組んでいた。
ishtarvenus.hatenablog.com
 ただ、そうした日々を過ごしてきた上で、「僕はどうにもスマブラというものに向いていない」ということがわかり始めてきたのだった。これは1年間自分なりに真剣に向き合ってきたことでやっとわかった事実だ。スマブラに触れる過程でいろいろな「初めて」を経験することになり、そこからやっと得られた知見だと思っている。「最初からつまらなかった、やるべきではなかった」というような話ではない。
 そういうわけで今から、その思索について色々書いていきたいと思う。スマブラというゲームの問題点というよりは「ゲームに向き合うっていうのは難しいことなんだね」という話なのでおそらくはスマブラに詳しくない人であっても読みやすいふうになっているのではないかと期待している。こういう視点があるのか、といった1つの経験談の話として捉えてもらえると幸いだ。それでは始めて行こう。

 ……余談だが、「長い引退記事を書くやつは引退しない」というネット上の超強力な法則がある。実際この記事は20000文字くらいあるわけで、普通に考えればかなり長いのだが、でもまあやめるつもりは実は結構ある。あの法則は長いということは未練が強いことの証左であるという論理付なのだが、では僕は未練が強いのかと考えると、まあうまくならなかったことは結構かなりガチで悔しいものの、それが運命だと割り切ってる気持ちもあるのでそこまで強くないと思っている。じゃあ未練がないのに何をそんなに長々書いてるんだというとそれはぜひ読んでいただきたいというところなのだが、まあ一言で言っておくとスマブラを通じてわかってきた、学んだことをとにかく熱意のままに書いてしまったという感じだ。まあ所詮は個人の日記であって今までのような講座の記事ではないからどうやっても個人的な話が多くなってしまうのだけれど、でも一応一般論的な話でまとめていったと思うのでなんか適当に読んでもらえると嬉しい。では、今度こそ始めて行こう。

(※以下に書くのは精神的な理由の話なので、スマブラのシステムについての話を見たいという人は

まで飛ぶことが推奨される。)

 スマブラがなにかと言われたらそれは多くの人にとっては趣味だろう。もちろんスマブラが人生の花という人もいるだろうし、強い人と言うのは大抵それくらいの覚悟を持ってやっているので、そんな人に趣味程度の人間が勝てるという道理は合ってもらっては困るくらいなのだが、とにかくまあ趣味という人が多いのは事実だろうと思う。僕の場合どうだったかと言うと、これは「今は趣味だけど趣味以上のものにしてみたい」という感じでスマブラに臨んでいた。「ひょっとして僕に才能があっちゃったりして、ひょっとして僕が勝ちまくれちゃったら夢のモテモテスマブラライフが到来するかも! そうなれそうならその時からガチでやっちゃおっと!」みたいな、そういうクソ甘えたような覚悟だったと思う。でもまあありがちな甘えだと思う。誰しもそんな最初から覚悟を持ってスマブラやってる人なんていないと思うし、みんなテキトーに始めてテキトーに続けるものでそうやって、続けてるうちになんとなく向いてる気がしてきて気がついたらのめり込む、そういうものなんじゃないかと思う。そういう気軽に始められるフットワークがあってこそいろいろな経験が出来るというものではないか! ね?
 閑話休題。で、まあ何にせよそういうある程度の時間をかけて極めるもの、これをあえて「趣味」と表現してしまうけれど、趣味というのには僕は大きく分けて3つの方向性があると思っている。1つは絵やプログラミング、作曲や執筆といった「創作の世界」。1つは読書や勉強、楽器や登山のような「追求の世界」。そして1つはスポーツや競技ゲーム、ビジネスや人間関係のような「勝負の世界」だ。どの世界が良いとか悪いとかではなく、趣味というやつを純粋に見つめてみると案外方向性が違っているという気付きの話である。この発見が実は僕にとって大きなものなのだがそれはまた後にしてとりあえず、結論から言ってしまうと、僕がスマブラを辞める理由というのは、この「世界」というものの不和の話だ。端的に言えば「今まで創作や追求の世界しか知らなかった人間として、今更勝負の世界を志向するのは厳しいかな」と思ったという話だ。これだけではもちろん話として微妙なので、以下に趣味の3つの方向性についての話を少しさせてもらおうと思う。持論が多くちょっと長いので読み飛ばし推奨かもしれないが、ただ個人的には面白い話だと思っているので読んでもらえると嬉しい。

 まず「創作の世界」について話していこう。「創作の世界」というのは読んで字のごとく、何かを作る趣味に没頭し先を目指していくような生き方だ。作るものは何でもいい、ただ創作の世界というのはとにかく果のない自己表現の世界であって、その趣向はとにかく「良いものを作りたい」という帰結に通ずる。趣味として本気で没頭するのであれば、それは常に自分が作れる最高のものであってほしいという願望が付随していないと、その在り方としては適切とは言えないだろう。ただ表現するだけというのは成長や先に繋がる可能性が薄いデイワークにすぎない。創作とは自己との挑戦でもあるのだ。そして、そうしてできたものが「傑作」であったなら、それは創作の世界に住むものとして最上限の喜びであって、その見果てぬ夢こそが創作の世界に生きる人の原動力になるのだ。
 「創作の世界」に住むものの特徴は「自分は小さくてもそれでも何かを残したい」という謙虚さと「自分にしかこの作品は作れないはずだ」という傲慢さであると思う。前者があるからこそ何かを作るということを趣向し、後者があるからこそ作品が完成する。
 「創作の世界」はあくまで「個人と社会」という関係性があり、自分が作ったものは社会に理解されなければ先に進めないという制約がある。もちろん「社会の人たちは何も理解しない」と思いながら自分だけを信じて作る創作もあるけれど、そうであっても「社会から評価されなかった」という事実はそれ自体が創作に影響を与えることになるだろう。いずれにしもて客観的指標というものが得られにくい創作の世界は、人を沼に沈め無限の自己陶酔に陥らせる恐ろしい側面も内包している。創作の持つ「個人と社会」という関係は逆説的にはその共同体の創作を見ることがその社会の趣向を表現しているという見方もできるかもしれない。
 個人的にはそのニッチな性質に反して、創作は日本においては実は他国に比べても非常にメジャーな趣味なのではないかと思っている。ものづくり大国、日本! というふうに。機械設計なんかもそういうところがあるのだろうか。
 以上が創作の世界である。誰しも憧れやすい漫画家やら絵師、シンガーソングライターや作家などは創作の世界のきらびやかな側面でありそうなれないとしても創作というものの魅力は捉われる人にとってはいつまでも尽きないものであろう。

 次に「追求の世界」について話していこう。追求の世界は代表的なものが学問だとか語学だとか楽器の練習であったり、あるいは一部武道や登山やゲームのRTA音ゲーやら、ある意味人によっては地味に感じられるような修行の世界である。追求の世界というのはとにかく自分自身の成長や世界の先に到達することを第一の趣向としており、膨大な人生というゲームを攻略していくようなRPG的世界観がこの世界の概観であろう。
 先程の「創作の世界」が「個人と社会」とのつながりであるとしたらこの「追求の世界」は本質的には個人だけの世界であってそういう意味では非常に孤独な個人主義の世界である。追求の世界の醍醐味はなんといっても自分の成長、知らなかったことを知る、できなかったことが出来るようになる、そういった変化に対する純粋な喜びであって、また自分のやってきたことに対するリターンが最も体感しやすいレベリングのような世界観でもある。技術を習得していく、思考を増やし知識を増やしていく。そういったプロセスを経て見果てぬ何かを求めることこそが「追求の世界」の目指す先であろう。
 1つの注意として、例えば絵を描こうと思ったなら、それは単に表現したいものを持つということではなく、もちろん絵を描く技術を習得している必要があり、そういう意味では絵を描くのも「追求の世界」と言えるのではないかと思うかもしれないが、ここではそうではないと言っておく。というのも絵を描く技術を習得するのはあくまで「それで何かを表現したい」という表現の目的意識が存在するのに対して、「追求の世界」というのは絵を描く技術そのものが目的である傾向が強い。別に技術に対する興味で終始しているためそれで何かを表現したいというのは二の次の話なのだ。やはりなんとも地味な生き方であるかもしれない。しかし最も純粋な喜びの得やすい、また争いの少ない牧歌的な世界と言えるだろう。
 また、追求の世界は「とにかく現実の生活に必ずしも役に立たない、他人からの評価も最も得られづらい」という欠点を抱えており、自己満足なくして成立しない分野でもある。他者からの評価を求めすぎるのは、追求の世界に身を置くときの正しい態度とは言えないだろう。あくまで日々の成長こそが追求の世界の醍醐味であって、それが理解されるかどうかはあくまで運ゲーとさえ言えるかもしれない。他に比べても追求することそのものに面白さがないとかなりやっていくのが厳しい分野と言えるだろう。
 個人的にはその地味さのせいなのか、追求は日本においては非常にファンの少ない世界のように思える。この世界は個人主義思想ともリンクしているのか西欧のほうが好む人が多いようで、科学文明にまで発展したのはそういう傾向によるものかもしれないと思ったりもするがそれは比較文化論の意味わからない話になりそうなのでやめておこう。危険である。
 とにかくこういう志向の世界は確かに存在しており、そういうのを好む人生というのも確かにあるということはここに記しておきたい。

 さて、最後に「勝負の世界」について話していこう。「勝負の世界」は「個人と個人」の世界、人と交わり人間社会の中で勝利を得ることを志向する最も人間らしい現実に即した世界のことである。例えばスポーツや将棋、対戦ゲームはその最たる例であり、あるいはそうでなくてもビジネスでの駆け引きや喧嘩、一般の人間関係、あるいは恋愛なんかもこの「勝負の世界」での物事と言えるかもしれない。
 勝負の世界には何よりも花がある。勝利によって得られるリターン、勝者として存在することの高揚感は非常に大きく、勝負の世界を極めることはもっともメリットに繋がりやすく人生の攻略という意味では最もそれに近いと言えるかもしれない。というよりも勝負の世界を一切経験せずに生きていくことは本質的には不可能であって、勝負とは人生そのものとさえ言えるかもしれない。ただ、それを趣味にするかというところには好みが分かれ、あくまで趣味として生きるのなら勝負よりも創作や追求がいい、という人も案外いるのかもしれない。
 勝負の世界はあくまで人間の間でこそ起きるものであって、勝利という結果の持つ重みは非常に大きいものがある。技術を磨くのも作戦を練るのも知識を増やすのも、あらゆる努力をするのも本質的には勝利という結果のために行われるものである。努力そのものに価値があるというのは勝負の世界の慰めとしては使われることもあるし事実ではあると思うが、やはり勝利という結果を志向するからこその努力であって、追求の世界のような努力そのものの目的化とは本質的にはわけが違うだろう。勝てないと、勝つことなしには勝負とは成立できないのである。
 その結果ある意味で言えば、本質的には「上手いこと」よりも「結果として勝つこと」のほうが重要であるというのが「勝負の世界」の大きな特徴かもしれない。「追求の世界」であるのなら、追求の結果を比べ合えばそれでどちらが上手いか比較できるし、故に上手いことを追求する世界なのだが、勝負はそうも行かないことが多いのである。というのも「上手さは勝つことでしか証明されない」からである。どんなに下手くそなプレイをしても、どんなにおかしな動きをしても、それで結果として勝てば「勝つためにあえてそうした」といえてしまう。どんなに練習を積んでも、どんなに時間をかけようと、それが勝利につながらない限りその価値は否定されてしまう(あるいはそういう気持ちになってしまう)ことさえあるのだ。結果として、こうした勝利の持つ絶対性が大きすぎることから、過程の楽しさというものが大きく損なわれてしまうことがある。勝敗という残酷な悪魔が一切の自己弁護も自己陶酔も許してはくれないというのは勝負の世界への持つもっとも過酷な特性だろう。
 この本質的には「上手さ」より「勝敗」を追求しているという点は個人的には勝負の世界での大きな特徴のように思う。もちろん上手さを追求した結果勝てる、という像も存在するが、それは視点としてすこし見方が違うのではないかと僕は思う。というのも勝負の世界において勝つための確固たる方法論や正解というのは存在しないため、本質的には追求というアプローチは不能だからである。何が上手さか、どれが正解でどうしたらうまくなるのか、といったこと自体最終的に勝敗で評価される勝負の世界に於いて、上手さを追求する自己完結的プロセスにはどうやっても限界があるのだ。こうしたら勝てる、ここまで頑張ったら勝てる、という話が存在したとしても、結局のところ勝負の対戦相手もそれをやってしまうため存在し得ないのである。これが勝負の世界で最も難しい部分だろう。
 勝負の世界はやはり最も実用的で他者からの直接的評価を得やすいという意味ではどんな社会でも最も好まれる趣味だと思う。というかこれを追求しない人は人生をなめてるのではないか、とさえ思う人がいるかも知れない。趣味と非趣味がある意味混沌としていることもありどれだけの人がどう好んでるかと言うのは難しいが、やはり最人気の世界だと思う。人の話を聞いていても勝負で勝つための話をすることがやはり多い。どんな人間であっても勝負から目を背けることは出来ないのだ。

 さて、僕がスマブラを諦めた理由は要するにこの勝負の世界に立ち向かうのがどうしても自分に向いてないと悟ったからである。
 僕は今までの人生でずっと、勝負の世界というものを全く意識せずに生きてきた。僕が人生で初めて楽しいと思ったのは絵を描くことや物語をつくる創作の世界だったし、それ以降好きだったのは数学だったり暗記だったりの追求の世界、唯一やったことがあるスポーツも勝負よりは追求の世界という感じの陸上競技弓道であったし、それ以外でも演劇やら作曲やら語学やら旅やら、意識していたわけではないがとにかく一貫して勝負というものを全くしてこなかった。
 それだけではない。僕は勝負というものに出会ったとしてもそれを勝負ではない形で処理しようとしてこれまで生きてきたのだった。例えばスコア対決のようなゆるい勝負であれば「相手に勝つこと」ではなく「これくらいのスコアを出す」というふうに目標を置換して追求的に臨んでいたし、あるいは面倒そうな勝負の世界に巻き込まれそうになった場合、無意識のうちに白旗を上げて「最弱」という地位を真っ先に貰いに行っていた。勝負に参加しない人畜無害な存在であることを真っ先に主張することで、多少の侮蔑を我慢しながら自分のしたいことをする、というのが僕の生き方だった(例えばスクールカーストだとか、マウントの取り合いとか)。カードゲームのような、一見勝負の世界のものにしか見えないものを真面目にやっていたときでさえ、僕は勝負という意識は一度もしたことがなかった。僕にとってはカードゲームは、自分の手札を見ながら最適解を計算する論理パズルであって、根本的には対戦相手がCPUでも人間でも変わらないと思っていたし、自分の知識や計算量、経験といったものを増やしていく追求的な側面だけが成長だと思って疑っていなかった。といよりもそれしか知らなかっただろう。
 そういう意味で僕はスマブラというゲームに触れることで、初めて勝負という世界を知ることができた。スマブラでどうやっても勝てない、という事実を深く考えることは、僕に初めて、今までの追求や創造的な姿勢では先に進めない、という最大の発見を教えてくれたのだ。スマブラは僕に、勝負というものを教えてくれた。
 僕が勝負というものを意識せずに生きてきたことは、スマブラについての僕のブログを改めて振り返ってみるとよく分かる。僕はスマブラの「研究記事」を2個ほど拵えているがどちらも驚くほど勝負というものから浮世離れしようという甘えた意図が見え隠れしている(といいつつも僕自身では僕の2つの研究記事には十二分に価値があると思っている。具体的にはスポーツにおけるスポーツ科学のような、勝敗とは関連しづらいけれど無駄にはならない、というような種類の価値があると思っている)。僕のスマブラに対するアプローチは長らく、「将棋には必勝法があるのだからそれを研究して発見すればいい」という方向性のものだった。わかりやすく言い換えるなら、「ポケモンでいうとレベル100になればレベル50のポケモンには必ず負けなくなる。頑張って経験値を積んでレベル100になろう」、というだけのアプローチだった。勝負というものを一切見ずに、ただ自己完結できる研究の世界だけでスマブラを攻略しようとしていたのだ。実際に強い人が高い勝率を維持できるのはレベル50と100数比べというわけではなく、勝負に向き合った上で勝率が上がるような動きをしっかりできているからである。それをレベルという数値で評価してもいいが、別に数値比べで勝ってるわけではないし、そう考えてしまうと何かを修了することで勝てるようになるという誤解が発生してしまうだろう。例えば「1000試合したら絶対にVIP(上位3%)までいけるようになる」みたいな。実際にはただ1000試合するだけではだめで本当に大事なのはそういう作業としてのレベリングではなく、しっかりと密度のある練習をしていくことなのだが、僕について言えばそのことを本気の本気で理解していなかった。じゃんけんの必勝法を探すようなそういう誤解をずっとしていたのだ。じゃんけんに上手い下手があるわけではない。じゃんけんで勝つためには結局のところ目の前の勝負で勝てるように、しっかりと傾向を見ながら策を凝らすしか無いのである。僕は勝つためのアプローチというものを本当にまるっきり知らなかったのだ。音楽理論だけで作曲はできないし、将棋で勝つためには論理的な必勝法なんか探すよりも定石を覚えて勝負に慣れたほうがいい(もっと言えば定石を覚えれば勝てるようになるという発想も少し甘い、それは手段の1つでしか無いことに注意しないと足元をすくわれるだろう)。スポーツ科学を勉強するよりもたくさん試合をして筋トレをしたほうがよっぽど効果的だろう。僕はそういう意味で全く勝負というものを理解できていなかったのである。勝負から逃げ続けてきた僕は、勝負というもののふの集う戦場に、甲冑と刀でなく白衣と顕微鏡を持って立ち向かうような場違いをずっとしていたのであった。全くアホアホのアホである。
 で、以上の「大きな過ち」に気づいたのは10月頃であった。そこで僕は考え方を大きく変え、勝負に向き合う、というふうに姿勢を変えることにした。この瞬間僕はほんとうの意味で初めて勝負というものに向き合うようになったのだと思う。そうやって改めて見るスマブラというゲームは、見慣れていたはずが少し違う、新鮮でエキサイティングな異世界だった。考えを改めた瞬間、たくさんの無知な誤解をしていたことに気づいたのだ。例えば、「相手のこの動きにはこれが正解で勝てる、というようなものが存在する」とか、「この型の相手にはこの戦法こそが必勝法である」とか、「この動きさえ覚えればこれくらいのレートに必ず行ける」とか、「ある戦法を編みだすことでアルゴリズムを履行して相手に勝てる」とかとか……。セオリーは手段でしか無いし、強い択というのもあくまで確率的に誘導しやすいだけの話である。本質的には勝つためには相手を見て、自分の頭で考えて(これを長らく事前準備で作戦とアルゴリズムを練ることだと誤解していたのだが実際には対戦中に適切な判断っをしてという意味である)、そして、持っている択を駆使しながら勝ちに行くことが勝負である。決して試合数やテクニックを見せびらかして「俺のほうが上手いから勝ちね」などということではない。それがしたいならタイムアタックでもやっていればいいのである。
 そういうわけで、「漠然とレベリング的に上手くなる」ではなく「火力を上げてテクを覚える」でもなく「目の前の相手に勝つために考え、勝ち方の引き出しを蓄積していく」そういうアプローチにそのときになって転換することになった。なるほど、それが勝負というものなのか。なんとも未経験の世界だ。それはとても面白いことに違いない、と。
 ……だが、やっとそれに気づいた僕は、そういうふうに勝負を見ていくにつれて、結局最終的に勝負に対しての適正のなさを感じることになった。

 僕は結局勝負というものが本質的には多分あまり好きではなかったのだ。強い人には憧れるし、そうなりたいと強く思うが、それはその人の持つ「強さ」という架空の資産に憧れているにすぎず、本質的な意味で強くなりたいなどと思ってはいなかった。本当に必要なはずのそれまでの過程、勝負という世界そのものを全然楽しんでなどいなかったのだ。言ってしまえばただチヤホヤされたいだけ、というそういうだけの願望に違いなかった。強くなりたいと口では言っても、その実努力がなされていなかったのは多分、そういうことだったのだろう。
 僕は勝ち負けというデジタルでしか評価できないことが好きではない。僕は勝つことで目の前の人が泣きそうになる顔を見るのがどうしても苦手だ。僕は練習が必ずしも結果に結びつかず、敗北という結果で自分が否定されたようになるのに耐えられない。僕は勝利という結果よりは「上手くなった」という結果が欲しかった。僕は目の前の人に勝つことにこだわることができない。僕は「追求」というアプローチを今更やめることができない。僕は上手くなったら「強さ」という架空の資産で100戦100勝できるようになりたかった。僕は……僕は勝負という過程を楽しめてなんかいなかったのだ。ただ、勝って、自己陶酔がしたいだけだった。

 それが振り返っての僕の本質だったと悟ってしまった。だから、これから続けてもうまくなるわけがなかったし、もっと他の世界のほうが僕に向いているのだろう、と思った。
 それで引退することにしたのだった。
 スマブラを通じ得た出会い、スマブラという初めて触れた勝負の世界を見て学んできたことは人生の財産だと思う。勝負という世界からずっと逃げてきた僕にとって、それは月面旅行に近いような本当に真新しくて貴重な経験だった。
 だから結果としてただの雑魚として終わるとしても、経験としての後悔というものはない……わけではないけどそんなに大きくはない。
 僕は今までスマブラ、というかゲーム全般をゲームのセンスなるものを覚醒させて、それで突然強くなるみたいなしょうもないビジョンをずっと思い描いていた。センスがあってうまくなる、センスがなくて上手くない。センスの発掘こそが練習だ、と。ただそれは間違っててたぶん実際には、(今までの話としては非常に逆説的だが)スマブラという技術を習得していくということのほうが近いのだと思う。ある程度の時間をかけて、勝ち方を蓄積し試行錯誤から学んでいく。それはちょうど絵を描けるようになることと似ているのかな、と。そういう意味でスマブラを頑張ることと絵を描けるようになることは同程度の人生の選択肢ということになる。どっちの技術が習得したかな? と。はて、僕はどっちのほうが好きなのかなあ、と。
 だからこうして走るのを一旦やめたのであった。そしてこれから改めて、いろんな世界を見てきた上で、自分がどういう世界で何を自己実現していきたいのか、ゆっくり考えていこうかと思っている。それがスマブラなのか絵なのかあるいは全然関係ない何かなのか。全く人生は楽しみなのかもしれない。もちろんそんなことはないのだけれど……笑

 以上、僕がスマブラをやめることになった理由でした。僕のプレイ時間の2000時間のうち1200時間くらいはたぶん「スマブラ研究」に費やしました。そういう意味で言ったら僕はあんまり努力しなかったのかもしれません。でもまあ、勝負なんて考えもつかなかったんだから、仕方なかったのかな……。むしろここから、頑張っていきたいと思います。やるぞ~!
 最後に謝辞を少しだけ。僕の練習に付き合ってくれたばかりでなく、僕の面倒くさい性格にも愛想を尽かさず付き合ってくださったTwitterの方々や、研鑽部の皆様には感謝してもしきれません。ありがとうございました。特に、僕にたくさんのゲームについての考え方を教えてくださったアイディさん(@ID141126)には本当に感謝しています。僕がこうしてゲームというものについて前向きに考えられたのはアイディさんのおかげです。本当にありがとうございました。
 では、また、どこかの世界で会いましょう。ボン・ボヤージュ!

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おわり

チラ裏:スマブラSPのシステムへの所感と不和

 以上、スマブラをやめた理由について、純粋に勝負というものが苦手で結局趣味として勝負自体を楽しめなかったから、という話だった。いや実際僕がスマブラをやめた理由の本質はそこなので別に他の話というやつはあんまりないのだけれど、ではスマブラのゲームシステムには何も異存がなかったか、と言うともちろんそういうことはない。おそらくは僕が勝負の世界にあってないということに加えて、スマブラというゲームシステムにあんまり適合できなかった、つまりは楽しめなかったという面も少なからずあったのかな、とは思っている。ただそのことを書くのはなんだか恥ずかしくてダサくて、はばかられていたけども、でもやっぱり書くことには意義があると思うので、自分がスマブラについていけなかった話について書いていこうと思う。スマブラSP新規勢として、順風満帆で乗り出した人間が、どう葛藤しどう挫折していくのかの1つのサンプルケースになる、かもしれない。
 下記の内容は「頑張ってもVIP到達程度」の弱い人間が感じた主観的な話であって、スマブラの真理や構造を的確に突いた碩学の発言などでは全く無い。SPから初めて1年、僕はこのゲームにこう感じてこういうものが見えてきました、というだけの話である。「まあこう見えるような人は所詮VIP止まりだ」と言われればそのとおりとしか返せないし、実際僕はそれより先の世界は見えなかった。これが「才能」というやつなのかもしれない。わびし。まあ一応1年も真面目にお付き合いした上での話なので、全く浅瀬だとあざ笑われてしまっても少し寂しかったりする。ゆえに話半分に、「初心者ってこんな感じか~」と思ってみてもらえるのが幸いであろう。

 スマブラというゲームは確かに神ゲーだった。どんな人とプレイしても楽しめるようになされている設計はその有能さを節々に感じるし、綺麗なグラフィックもキャラの個性も十分、アイテムもステージもよく作り込まれており、対戦ゲームとしての出来は本当に最高峰といっても差し支えないゲームであると思う。だがその一方で、自分がガチ志向のプレイヤーとしてのめり込んでいく中で、どうしてもやっぱり好きではなかった、つらかったな、と思った要素がいくつかあったのも事実だった。それは、別にバカみたいにでかくて邪魔な「READY GO」とか、毎回キャラ選ばされるとか、誰かとのルール統一されてないとか、そういう話ではない。ラグのストレスでさえもない。ゲームの設計思想、このゲームの「全キャラ平等であるべきという設計」の話、そしてそのことから起きる「負け方のつまらなさ」である。

 本作は80キャラという常軌を逸したキャラ数を擁する対戦アクションゲームなのだが、それだけのキャラ数がいるとキャラ調整というやつは非常にデリケートで難しいものになる。正直どうやってもバランスというものは取れるようで取れないし、誰かが必然的に強くなりすぎるということは当然起こりうる話だろう。だが、本作はそんな無理難題を目の前にしながらも、驚くほどバランスが良い。確かに強いキャラというのもいるが決して環境に一極集中しないし、80近いキャラがいながらどのキャラもオンラインをやっていればある程度は見ることが出来るのは全く神がかり的な調整と言わざるを得ないだろう。だが、一方でこの芸術的な調整がむしろ面白さを損なっていたのではないかと感じることが僕には少しあった。
 それは1つは「擦り技の性能過多」、1つは「垂直的平等主義の面白くなさ」である。どちらも僕の主観的面白くなさであって、システムの問題というものではない。言ってしまえば将棋をやってて「香車が後ろに進めないのがつまらない」といっているようなもので「じゃあやめろよ」と言うだけの話である。はい。

 まず「擦り技の性能過多」という話から始めようと思う。一般に対戦ゲームのキャラ調整において、バランスを取ろうと思ったとき、そのアプローチは2種類あると思う。1つは全キャラにバランスの良いステータスを与えることで一極化を防ぐというアプローチ、もう1つ全キャラに非常に尖ったステータスを与えることでチャンスを与えて結果として一極化を防ぐというアプローチである。どちらも一長一短だが、前者は本当に安定した環境になりやすいというメリットと地味になりやすいというデメリットが、後者はゲームとして派手になりやすいというメリットと壊れすぎた部分が発生して安定しない可能性もあるというデメリットがある*1
 では、スマブラはどちらでアプローチしたのであろうか、僕は後者であろうと思っている。実際これだけの数のキャラで純粋なバランス志向というのは難しいと思うし、ゲームとして売り出すときに前者のような地味なアプローチを取るほうが間違っているだろう。そういった設計思想はむしろ正しいと言えるし、実際それがかなりよく成功している例としてスマブラを挙げてしまってもいいのではとさえ思う。
 さて、この後者のアプローチ(これを「みんなズルくてみんな良い」、と端的に言うことにしよう)で調節をするにあたって、本作は各キャラの何をズルくさせただろうか。僕が思うには、それはとにかくいろいろな技のリスクを徹底的に、かなり小さく設計することで攻めの強いゲーム設計を追求したことだと思っている。言い換えればだいたいどのキャラも擦り技とよばれる*2強力な先手を取れる技を持っているということである。
 このゲームに於いては、とにかく確定反撃という概念はかなり抑えられて設計されていた。いわゆる強攻撃や空攻撃といった、システム上ローリスクローリターンな技はもちろん、スマッシュ攻撃のようなハイリスクハイリターン技さえも、反撃がとても難しいということが非常に頻発して起きた。もちろんガードが強すぎて「攻めたほうが負け」というゲーム設計は全く面白くないだろう。しかし今作のそれは少しやりすぎだったように僕は感じてしまった。
 例えば、弱百烈(弱連)という仕様的にはハイリスクハイリターンな技が存在するのだが、これが実際にはガードした場合そこから反撃を取るのがかなり難しく、事実上ローリスクハイリターンな技になっていた。僕はこれが心底気に食わなかったのだが、それは単にリスクが低いというだけでなく、弱連をガードされた際、ガードされた側は本来「ミスったピンチ!」と思って即座にガードされたことを確認し、少しでもリスクを抑えるために早急にその動きを止めて逃げる準備をするのが妥当な動きのはずが、実際にはガードからの反撃が非常に難しい設計になっているため、むしろ相手のガードを見てもお構いなしにパナし続けるほうがリターンが高いという謎の逆転現象が発生してしまう仕様になっており、ゲーム性として非常に疑問を感じる設計になっていたためである。一応ある程度(10発ほど)ガードしてから内回避で高いリターンを取ることが出来るのだが、これがいかんせん原理上は出来るはずでもかなり難しいし、というか体の大きいキャラは事実上無理だったり、回避を入れ込んだ結果2回連続で回避が出ちゃったりだなんだで、本当に厳しいのである。少なくとも片やAボタンを構わず長押し技を擦るだけの動き、片やそれを咎めるために、かなり上手いタイミングで回避を入れるか、読み合いを制するか、あるいは諦めるか、というような設計は僕個人としては非常に歯がゆいものだった*3
 こういった設計は随所に見受けられる。パルテナ最強技の空Nは着地隙こそ長いもののガードに擦られてしまったら、キャラによっては最終段をジャスガするしかなかったり、それこそそもそも無理だったりで、ありえないくらいのハイリターンローリスク技と化す。こっちはただ適当に空Nをふっているだけなのに、である(実際には引き行動に弱いのだがまあそういうことではなく)。あるいは、Mr.ゲーム&ウォッチにひたすら上B空下をされたとしてそれにしっかりと対応するのに必要な読み、知識、技はどれだけのものだろうか。
 要するに、擦り技があまりにも強すぎるということ、そして擦り技のダンスムーブのお手軽さに対して相手側の対策が難しすぎる、ということである。それらを理解した上位プレイヤーからしたらそんなの対策できて当たり前かもしれないが、これからガチ勢として頑張るぞ、という初心者から中堅くらいまでのプレイヤーにとってこのバランスというのは本当に辛い。多少の努力程度では、依然擦りのほうが強いという状況がナチュラルに発生するのだ。初めて2ヶ月くらいの頃だろうか、かなり頑張ってきたはずなのに結局カービィの上B連打に勝てない、となったときは本当に絶望感が半端なくしばらく本気で落ち込むほどだった。ただでさえ勝敗でしか成長を測れない勝負の世界に於いて、この事の絶望感というのは半端ないものがあるのだ。
 しかもこれは、ラグのあるオンライン環境ではさらに地獄が加速する。見えない、取れない、間に合わない、ただでさえ上がったゲームスピード、発生3Fの技が跋扈し飛び道具の弾速も非常に速い世界での6F遅延の大きさ、というのはものすごい恐怖である。
 加えてこれは仕方のないことだが、このゲームは80キャラもいることからそういったこすりに対してのキャラ対策の知識が非常に成長させづらいということが発生する。1度負けたキャラでも次に会うのは50戦後、1日後、なんてこともよく起きる。僕がただ対戦するだけでは全然強くならなかった一番の原因は、個人的にはキャラ対策に目が向いづらかったことなのかな、とかなり反省している。実際これらの「擦り強すぎ」問題は、キャラ対策こそが1番の特効薬だと思うのだが、結果としてそのことに目が向きづらい設計になっていただろう。これは別に仕方ないことだし、別に不満ということではないのだが。どちらかと言えば反省する点である……。
 いずれにせよ、まあこういうことである。擦りのほうが強いというのは何も負けて悔しいというだけでなく、勝ってもどこか釈然としない、楽しくないということにも繋がってしまうことがある。僕の場合、結局パルテナで空N擦ってるときが1番強かったのではないか、といつまでも釈然としない気持ちがあり続け、結果コンプレックスが膨らみ続けた(実際多分、僕はそうでしかなかった)。このコンプレックスは結構強い悩みを感じるのだが、その一方でそこから抜け出す方法がなかなか見つからず、結局対応できる人には勝てないけど現状維持のために擦り続ける、という非常に醜い姿を長らく晒すことになった。いつまでも擦るだけの弱い自分は嫌だ、でも擦らずに戦えるだけの強さが自分にはない、と。そしていつしか、ただ自分がかけてきた時間は、単に擦り方だけうまくなっただけで、スマ力なんてちっとも着いてなんかいなかった、と気づく。そして、それがだんだん怖くて、わからなくなって、辛くなって……勝負から少し逃げ出してしまうのである。僕の場合は中途半端にパルテナ以外のキャラを触ったり、トレモばかりにこもったり、なんていう負のループにハマってしまった。
 これは僕が良くなかったに違いない。もっとしっかり向き合うべきだったのだろう。でも結局何からどう向き合えばいいのかわからなかったし、実際これは右も左も分からない状態からこのゲームを始めた人が、行き着きやすい1つの沼になっているのではないかとは思う。そういう意味でなんとなく、擦り合いというゲーム設計が好きじゃないと、逆恨み的にも感じてしまったのであった。
 以上が「擦り技の性能過多」という話である。実際僕が「そこから先の世界に行けなかったのが悪い、システムのせいにするな」と言われた返す言葉もないのだが、まあ擦りが強い世界が結構長いこと広がっている設計は、やっぱりどこか好きじゃなかったかなくらいの話はちょっとしたいかなと思ったりする。弱い人の世界の見方はこうなのだ(僕だけかもだけど)。本当はきっと、そこから先が一番面白い世界だったのかなあ、とは思う。思うのだけど、わからない。少しもったいないのかもしれない。でも、結局僕は勝負がわからなかったし、いちばん大事で、いちばん面白いはずの読み合いができなかった人間にはここまでが限界なのかもしれないのだろう。あな、わびし。

 さて、もう一つの話「垂直的平等主義の面白くなさ」ということを書いておきたいと思う。これは、上記の話よりも更に好みの問題であって、本当に「僕が個人的にあんまり好きじゃなかった!」というだけの話である。
 本作スマブラSPはとにかくキャラのバランスを良くしようという努力が非常に感じられる。それは本当に良いことだと思うし、なんの反論もないしできない。できないのだが、個人的に思うこととして「キャラ設計やシステム上、本来ある程度のところで天井があっても仕方ないはずのキャラを、なんか無理にシステム上強いはずのキャラと同じ土俵に乗せようとした結果、キャラ設計や調節に些かいびつなことが起きているのではないか」と感じることがあったりなかったりする。
 そもそもキャラになぜ優劣が付くのかと言えば、それはもちろん能力差があり、ゲームに対する適正が違うからである。身長の高い人はバスケで有利だが、かくれんぼでは不利であろう。ガノンドロフはタイマンでは弱いが乱闘やホームランコンテストでは非常に強力だ。キャラランクの差というのは対戦という1つの指標での適正の差であって、それはある意味、ゲームがゲームとしてある以上ある程度は仕方のないことである。であるはずだが、もちろん本作はとにかくバランスに注力しているため、そういった差も極力埋めるように設計している。
 そもそもタイマンで強いキャラがなぜ強いのかと言えば、それは基本的には読み合いが有利に進めやすいことというのに尽きる。それは純粋に差し合いが強かったりリターンのとり方が華麗だったりするわけなのだが、どちらにせよベースとしては高い操作精度や鋭い読みの感覚といったものが要求されるキャラが強い傾向にあるはずである。というか、僕個人としてはそうあって欲しい、そうであるからこそ努力するモチベーションになるというところがある。
 なのだが、全キャラの性能をある程度均すべきという思想はある意味でそれを否定する設計になる。実際、差し合いの強いキャラの多くはその武器を取り上げられる調節を受け、一方で差し合いがしづらいキャラにはかなりの強化を施すアップデートが続いてきた。詳しいバランス調整のことはよくわからないし、実際明らかにひどかったガード漏れだったり弱すぎる復帰だったり等々が修正されるというのは良いことだと思うのだが、特に直近のアップデートは個人的にはかなり「面白くなさ」を感じるようなアップデートだったと感じている。この方針が続くのであれば少し寂しいなあ、と思うところが個人的にはあったり、と。
 以下の試合は、僕の感情を非常に掻き立てる試合内容になっている。僕がこの試合から感じるのは、「切なさ」と「儚さ」だ。仏教的無常観に訴える試合風景なのかもしれない。

(この後シールドが割られたルキナは、クッパの最大ホールドスマッシュを受けてそのまま敗北する)
 いや、別にそういうゲームだと思えばいいと思うし、負けるほうが悪いのかもしれないが、なんか、つらい。とてもつらい。
 とはいえこれは僕ぐらいの初心者の視点だし、どんなキャラも一流の使い手になるには想像を超えた努力が必要なのは当然だし、そういったことを否定しているわけでは全く無い。何よりも結局上に登れば登るほど差し合いが強いキャラが依然として強いという事実があるわけだし、これはあくまで浅瀬に住むものの見ている見方である。ただ僕は、このままの平等主義が続くことにはあんまり期待をしていないということである。本当に個人的な意見だ。なんか、好きじゃないのである。
 以上が「垂直的平等主義の面白くなさ」ということであって、かなり個人的な好みの話である。この感情はスマブラよりもSwitchのマリオカート8をやってるときに強く感じていて、マリオカート8はドリフトや難しいショートカットを決める軽量級よりも、とにかくミスらないように安定した走りだけをする重量級とでそこまで性能的な差異が発生しない設計になっている(それどころかアイテム性能の過剰な性能から対戦環境では重量級のほうが強いと思う)。そんな設計になっていたら、わざわざ軽量級のマシンで難しいことをする必要なんて無いし、だからあんまり面白くないと思ってしまった。重量級マシンは操作性が悪いためそういう難しさはあるのだが、まあ要するに僕の求める難しさではなかったのかもしれない。

 さて、以上2つの僕が感じたスマブラの辛さであった。これらの辛さによって最終的に感じた問題点は、負け方が絶望的に面白くない、と感じる試合のかなりの多さである。とにかく負けたときに感じるのが、「なにかズルをされたような感覚」ばかりになってしまうのだ。それが間違っているとはわかっていても、である。ゲームというのは特に負けたときに納得感がないと楽しめないと思う。勝った側はかったからこそいい気持ちでいられるが、負けた側は負けという結果を受け止め、それをどうにかして次につなげたいと思う。そう思ったときに、最初に目につくものが「理不尽という感覚」であるのなら、それはやはり面白いと感じられなくなってしまうであろう。そういう意味で僕は、こういった設計が納得感を曇らせる重圧として、どんどんとのしかかって来るように感じられてしまった。そしてある時を境に、何かがふっきれたように、僕はスマブラを完全に楽しめなくなっていたのだった。勝っても負けても何も感じられない、そこにあったのは疲れ。だから僕は、スマブラをやめた、のかもしれない。

 と、以上、システム面で楽しめなくなってしまったという引退の話だった。僕としてはこれらの理由は二の次の、後からの理由付けであって本質的なものではないのだが、でもまあそういうふうに感じていた事自体は事実なので一応正直に書いておくのもいいかなと思ってせこせこと書き連ねたのであった。弱いというのは、成長できないというのは悲しいことである。楽しかったはずのものがどんどん曇って見えてくるのかもしれない。
 まあいずれにせよこうして、別の視点で振り返ってみたのもなんだか悪いことではなかった気がする。正しい間違っているではなく、思考の整理ができて自分の中で感じていた蟠りをだいぶほぐすことができた。この不満をしっかりと言語化し、見つめ直して、その上でどうしていくか、と考えるほうが、いつまでも漠然と不満を感じたまま煮え切らないよりよっぽど良かったのだと思う。これらのことにしっかりと自分で反省と反論ができたのなら、また楽しめるようになる、のかもしれない。
 ただまあ、とりあえず、僕は1年間自分としては真剣に向き合ってきたスマブラをやめることにした。勝負というものがどうしても向いていないと感じてしまったから。勝負というものがどうにもつらくなってしまったから。ただ、勝負の世界を自分の足で歩いてみてきたことは悪いことではなかったのだと思う。思うことにするのである。とにかく、またリフレッシュして、次はもっと強い自分になりたいなあ、と思う次第である。

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おわり
 

*1:この後者の調整は実際かなり難しくリスキーでもある。例えばシャドウバースというカードゲームは、後者のアプローチで調整を行っていたのだが、特に環境第5期でこのアプローチに失敗し、大変な一極環境が発生した(通称頭ワンドリ)。ゲーム環境が荒れに荒れ、結局キャラ調整をほとんど1からやり直すほどの修正をする羽目になった(ユーザーはおそらくこの時期にかなり減った)。この調節方法の難しさとリスクを表す話である。

*2:僕は中心差し込み技と呼びたかったのだが

*3:ちなみにこの対策はsmashlogに記事があるので困ってる人は参考にしよう 【スマブラSP】反撃困難!?百裂攻撃の対策方法 | Smashlog